「若葉・九条の会」ニュースレター第15号
(2007年8月28日発行)
シール投票 憲法九条守る 86.4%
8月12日(日)千葉市中央公園で子どもの権利を守るための「チャリティライブコンサートin ちば」が催されました。戦争の犠牲になるのは子どもや弱いものという見地から『若葉九条の会』も参加し、「憲法九条 変える?変えない?」のシール投票を行ないました。ぎらぎら照りつける真夏の太陽の下、集まった人は残念ながら少なかったのですが。「九条は変えない」が圧倒的多数でした。
投票の結果九条を変えない 114人(86.4%) 変える 10人(7.6%)わからない 8人(6.1%)
多くの人に観てもらいたい 映画「日本の青空」
8月15日の空は今年も青空でした。広島原爆投下、長崎原爆投下、そして終戦。明治天皇が定めた大日本帝国憲法は、「戦争の放棄」を掲げた国民主権の新しい憲法にかわりました。しかし、終戦から62年目の今年、日本国憲法をかえるための手続法が成立する動きの中で、戦争被害や原爆被害の実態、新しい憲法の成り立ち等、知らないことばかりだと気づかされます。
映画「日本の青空」は現日本国憲法誕生の物語です。日本国憲法は押し付けられた憲法ではないと主張するこの映画を「わかば文化ホールで上映しましょう」という呼びかけが「日本の青空」千葉市上映連絡会の方からあり、5月には20名の参加を得て実行委員会ができました。多くの方に観てもらいたいと千葉市教育委員会の後援を得て、公民館や学校、地域の自治会、老人会などに広報することができました。
上映日当日は大型台風の影響も心配されましたが、530名の参加がありました。会場では平和活動等を行っている市民団体のブースも開設し、活動の紹介や署名等、市民間の交流ができました。アンケートには「憲法を考えるきっかけとなった」「憲法誕生までの経緯を知らなかった、多くの方に知ってほしい」等が記されていました。映画「日本の青空」をもっと多くの人に観てもらいたい。93万人を擁する千葉市での上映会は、まだ2回だけ。実行委員会形式であるいは団体で、上映会が開かれるよう応援したいと思います。(千城台・高野晴美)
8月15日、敗戦記念日を前に映画「陸に上がった軍艦」を観た。
新藤兼人の帝国海軍水兵体験物語だが、30歳過ぎの社会人が召集され遭遇する人間性をとことん否定し愚劣で滑稽で残酷極まる現実を語る。
1943年3月召集された100人の二等水兵のうち6人だけが宝塚(宝塚劇場)で生き残るのだが、あとの94人は転属の度に海の藻屑となった。
人間がこれほど、チリ、アクタ、ウジムシの如く貶められる状況は戦前の大日本国憲法下では当たり前のことであった。私も同時期陸軍二等兵として、中国で苛酷な兵隊生活を経験したが陸海軍とも全く同じだ。日本の軍隊――戦争の全ての事柄は「朕の命令」という構図で、天皇と支配階級、陸海空軍戦争屋の呆れるほどの無知、無定見、無節操、非人間性に満ち満ちたものだ。 映画を観終わって、現憲法九条の重要さ、大切さ、いとおしさを今更の様に心の奥でかみしめた。(都賀の台・鎌倉忠三郎)
日本軍遺棄毒ガス弾事故現地(敦化)調査に参加して
7月20日から25日までの日程で、中国吉林省敦化市へ行って来ました。敦化市の郊外は旧満州時代、軍事的な要塞の地として飛行場をつくり、日本軍の指揮機関と大量の部隊が駐留していました。
そして大量の武器弾薬の集積地にもなっていた所です。その武器弾薬の中には国際条約で使用を禁じられていた毒ガス弾が大量にあったのです。敗戦の時毒ガス弾は地中に埋められたり、山中に捨てられたりして隠されたのですが、処理しきれずに放置されたままのものもあったということです。1950年代には事故が多発したので新中国政府が重視し、かなり力を入れて遺棄弾薬の処理をしたのですが、まだ大量に残っているのです。
さて今回私たちが訪ねようとした所は、敦化市北の郊外で2004年7月23日、子どもたち四人が川遊びをしている時に偶然見つけた砲弾をいじっているうちに毒液が出てきて二人の子どもの手足に付着する事故があった所です。ここ蓮花泡林場は林業局(営林署のようなもの)が管轄する村で1960年頃から入植した杣夫たちが、家を建てるとき、道をつくるとき、あるいは畑をつくるときに遺棄砲弾がゴロゴロ出て来たそうです。村人たちは1950年代に処理事業が行われたことを知らなかったようです。2004年の事故以前に何件も被毒事故が発生しているのですがなぜか表沙汰にはならず(つまり経験が継承されてなかった)たまたま2004年、被毒した二人の子どもが村の診療所(医者はおらず看護師一人のみ)で手当てを受けているところを林場の場長が見て、これはただごとではないと上級に報告、救急車で二人は市民病院に運ばれ61日間の入院になったのです。
しかし、不思議なことに入院中も退院の時にも、病気についても、入院費用についても、退院後のケアについても一切説明がなく、退院してから2度チェックを頼んだが門前払いだったそうです。二人の子どもは外面的な傷跡はもちろん、風邪をひきやすい、集中力や持続力がなくなった等の後遺症があります。また、事故が原因で疎外されたり、いじめがあったりで一人の子どもは中学二年で自主退学をしています。
この事故をきっかけに村人たちは漸く毒ガス弾の怖さに気づき、自分達の村が他の村に比べてガンによる死亡が多いのはなぜか、痺れや震えの症状、腰の回りなどに発疹がでる、喉の炎症が多いのはなぜなのか、原因は井戸水ではないのか調べてほしいと、林業局の民生部門や市政府等に何度も要求書を出しています。市政府からは一度だけ井戸水を採取に来たけれどデータは見せてもらえず、回答は口頭で一回だけ「大丈夫だ」だそうです。
現在、中国政府は人民の生命の安全を守るために、日本政府と協定を結び何十億円もの予算を使って遺棄毒ガス弾の処理事業をハルバ嶺で進めています。しかしその生命の安全を守るとは、砲弾は危険だから近寄るな、禁止地区に入るなということであって、今現在、被毒して苦しんでいる人や、毒が入り込んだかもしれない水を飲んで病気になっている人たちのケアをしていないのです。
私たちは2004年の事故現場はおろか、蓮花泡林場への入村もできませんでした。上級からの指示ということで理由はわかりません。私たちが敦化に着いた1週間ほど前にも、黒龍江省の最北の地、孫呉にある旧日本軍の地下要塞内で、農民が換金しようと砲弾を堀だし信管を抜く作業中に突然爆発、農民は重症を負うという事故があったそうです。この事故は公表されていません。この様な事故がなぜか隠蔽されようとしている気配が強く感じられます。
市内に転居する若者が多くなっているとは言っても、この村蓮花泡林場にはまだ200人ぐらいの人口があり、未処理の砲弾、毒ガス弾の真っ只中で農業と林業で生活をしています。村の人たちは次のように言っています。
・ 無条件で早く砲弾処理をしてほしい。
・ 子孫のためにもクリーンな土地にしてほしい。
・ ドイツでは処理済と聞いているが、日本はなぜできないのか。日本に持って帰ってくれ。これに対して私たち日本人は何ができるのか、どうしなければならないのか、大きな課題をつきつけられています。(千城台西 渡部 操)
参考:「ぼくは毒ガスの村で生まれた。」 合同出版 2007/5 1,300円