ニュースフラッシュニュースレター118号(2024.8.9発行)を掲載しました(2024.8.14)ニュースフラッシュ

「若葉・九条の会」 ニュースレター  第10号
(2006年12月28日発行) 発行/若葉・九条の会広報部
 
語り継ぐ 第3回 2006年10月22日(日)
「戦争は絶対に嫌だと声を上げよう」
お話:信太 正道さん
私は2000年12月23日に「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」を設立しました。
2割の国民が厭戦気分になれば戦争計画は取り止めとなると考えるからです。
・憲法9条2項が殺されたらどうなるか?
・敵が攻めてきたらどうするんだ?
これが今一番問題です。これからのことが。しかし今、安部首相は「美しい国」なんて言って、絶対に醜い過去を隠したい、消したいようなので(従軍慰安婦問題の放映でNHKに圧力をかけた)古いことを忘れないように、言わなければならないのです。
教育基本法を変えて愛国心を植えつけて美しい国をつくるといっています。<憲法9条を殺す> これが「美しい国」の中身です。
私は、純粋の職業軍人です。1941年12月8日、真珠湾攻撃。1942年、海軍兵学校入校。飛行機乗りに憧れ「無敵海軍航空隊」に。1944年「神風特別攻撃隊」がつくられ1945年、特攻隊員に指名されました。死刑の宣告と同じです。職業軍人のエリートであっても、みな命は惜しく、死は恐ろしく“天皇のために死ぬ”のは本音ではなかった。面会の時、母は「特攻隊をヤメテ!」といいました。敗戦の2週間前海軍少尉に昇格。本音ではない遺書を書き前線基地に移動中8月15日、敗戦。9月帰郷した時、私を見て、母は「生きてる、生きてる」と絶叫しました。
戦後、大学卒業。海上保安庁勤務。朝鮮戦争時の機雷掃海に従事。米軍の要求です。掃海艇一艘が機雷に触れ死者を一人出している。「厳秘」で国民には知らされなかった。
日本の再軍備は、(海上警備隊、海上自衛隊、航空自衛隊を見てきて)まさに「小さく生んで大きく育てろ」で今日まで来た。航空自衛隊から日本航空に移り定年退職。
日航時代、米人機長の言葉 「戦争で部下に危険な仕事を命じても、百分の一でも生きて帰れるなら罪ではない。でも、生還を許さない特攻を命じた者には殺人罪が成立する」を聞いて、目覚めた。
1994年11月3日、読売新聞の憲法改正私案を読み慄然としました。
1995 日米安保再定義→防衛計画の大綱
1996 日米共同宣言
1999 周辺事態法
2003 有事法
在日米軍再編 自衛隊再編 憲法9条を殺す→自衛隊から米衛隊へ。
では、いま、どうすればいいか?
1)二度と戦争は厭!と言おう。 改憲、有事法制と言うソフト、軍隊や武器と言うハードがあっても、戦うと言う国民のスピリットがなければ戦争はできない。非国民の薦め。
2)「備えあれば 憂え有り」武器を持たない。交戦権を持たない。9条2項が殺されたら、その上に支えられている人権、福祉、教育は全滅することを伝える。
3)憲法9条の運命は5000万人の中翼の人々の判断にある。誰と憲法9条の話をするのか、わかり易く話すことを考えて頂きたい。
4)いかなる戦争も「脅威」と嘘から出発
5)憲法改正国民投票の準備をしよう
食べやすくおいしい毒饅頭 参照
信太 正道さん 「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」http://www1.odn.ne.jp/ensenshomin/ FAX 0467-22-1948
「最後の特攻隊員」――二度目の遺書 信太 正道 著 高文研 1998年刊 1800円
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語り継ぐ 第4回  2006年11月26日(日)
<証言>第731部隊の実像 お話 篠塚良雄さん
木村:本日は、篠塚さんに731部隊のことを話していただきます。当会会員の佐藤二郎さんから、ご紹介をお願いします。
佐藤:3丁目の佐藤です。篠塚さんは大正2年、茂原生まれ。当時農村では、学校へ行くのは容易なことではなかった。向学心にもえる篠塚少年が、731部隊という経験をすることになるのですが、戦後「時代を逆戻りさせてはいけない」と勇気をもって謝罪し、証言していられることを尊敬しています。
◇ 篠塚です。もう84歳になりますが、平和を守っていかねばならないという気持ちはますます強くなります。私は1923年生まれ、親は野菜つくりの百姓にしようと実業学校(農業科)に行かせました。が1年生の時、石井部隊隊員募集の試験を先輩に誘われて、親にも内緒で受けて合格、「4月1日陸軍医学校防疫研究室に来い」(1939年)との通知が来ました。それは東京の牛込区(現在の新宿区)戸山町にありました。「お前たちは石井部隊の少年隊員だ。勉強せよ。勉強すれば大学にも入れてやる」といわれ、ここで教育されました。(石井式濾水機(注1)、細菌学の初歩、など)1ヶ月余りの教育の後30人の内1人は研究室に残り29人はハルピン市郊外の平房に移動させられました。
(東京→列車下関→関釜連絡線釜山→列車で朝鮮半島を北上「満州国」ハルピン市到着)
ハルピン市内の731部隊吉林街分室で顔写真の貼ってある身分証明書が渡され、正式に731部隊の少年隊に配属。車で20キロ余離れた平房の731部隊本部へ。
◇ ここは特別軍事地域・日本軍の飛行機もこの上を飛ぶことは不可・「見るな、聞くな、言うな」が部隊の鉄則・ここから逃げ出せば処刑・・・様子が変だし、私はびっくりしましたが、野原に建つ巨大な建物はロ号棟と呼ばれる、日本陸軍が生んだ世界最大規模の細菌戦部隊の中心部であり、高々と聳え立つ煙突は生体解剖後の死体を始末する焼却炉の煙突だったとは・・・その時は想像もしませんでした。秘密があればあるほど何かやりがいのある仕事が待っているのではないだろうかと思いました。少年隊として仕事を続けていくうちに、731部隊が実は細菌兵器を開発、製造するために細菌の大量生産と人体実験を行っていることを知ります。
◇ 一番最初教えられここで一番大事なのは消毒法です。細菌を扱っているのだから自分が感染すれば死にます。(実際、日本の兵士も、部隊の大勢の仲間も感染して死にました。それでも、「金鵄勲章」!)クレゾールが入った巨大な風呂に入る。チフス、パラチフス、コレラなどの予防注射。細菌実習の時は常に生菌を使う。ウサギに青酸カリ、砒素などの毒物を注射、ウサギが痙攣し死んでいくのを直視させられました。私もウサギを飼っていましたので、つらく目をつぶると「目をつぶるな!」と叱責と鞭です。こうして生き物が死ぬことに平気になるような残忍性、残虐性が植えつけられていったのです。 6月頃だったと思いますが、夜中、外が慌しくなった。鎖をひきずる音。「マルタ」を運び込んだ音でした。「マルタ」と言うのは材料(マテイリアルの意)あるいは材木の丸太をもじったとも。つまり731部隊で行われていた実験、研究の生体材料のことで生きながら切断され、切り刻まれた。(中国人、ロシア人、朝鮮人)
◇ 1939年、ノモンハン事件(注2)が起こり、部隊では細菌の大量生産がはじまり、ノモンハンの前線基地まで細菌を運ぶ作業は下士官に引率された少年隊が行った。私もハルピンからハイラルまで、1回行きました。石油缶に入った菌液は、敵の飲水を汚染させる目的でハルハ河上流のホルステイン川に流したとききました。この結果日本の兵隊にも多くのパラチフス患者がでた。17000人余りの捕虜と死傷者をだし惨敗の戦いであったのに翌年、石井部隊長は陸軍最高技術有効章を、下士官、将校は金鵄勲章を、私は運搬した功労によって、従軍徽章という勲章と金券を貰いました。細菌が兵器として使えることを証明したのがノモンハン事件であった。
◇ 1940年からノミの増殖に動員されました。ペスト菌を運ぶ兵器としてノミが使われた。ネズミにペスト菌を注射して感染させる。これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。ネズミは死にますが、ノミは体温の冷めた動物からすぐに離れる習性によって人間につく。人間に線ペストを発症させる。ペストは死亡率100パーセントです。私たちが増殖したノミはこのように使われたのだろうと思います。
◇ 1941年少年隊解散(各地の戦場で兵力を必要としたため?)私は盲腸で入院しており、再び731部隊に。第四部隊柄沢班に配属。強力な病原菌の大量培養と人体実験が任務。私が所属する柄沢班でも細菌の毒力をテストすると言う理由で、五人の中国人を使って生体実験と生体解剖をおこないました。(1942年)
著書「日本にも戦争があった」(P78ーP87)
◇ <どうしたらより沢山の人を殺す事ができるか>このことだけを考えていた。少年隊の戦友も感染した末、犠牲者の一人になった。1943年になってからつくづく細菌班から抜けたいと思うようになった。細菌の怖さを知ってきた。が出られなかった。柄沢班長に、思い切って辞めたいと申し出たが「やめさせることはできない。休暇をやるから日本に一度帰って来い」と、一時帰省。つかの間、7月、満州鞍山市の昭和鉄鋼の研究所に赴任の指示。9月、瀋陽市満州医科大学および奉天、同善堂病院の技術員となることを命じられた。翌1944年ソ連国境に近い黒河省神武屯の関東軍五十四師団に現役兵として入営。11月から師団軍医部、翌45年2月、731部隊にて下士官養成教育。この頃中国との戦いは 敗北していることは、下級兵士にもわかった。知らないのは一般の日本人だけ。6月「通化」へ移動していた125部隊軍医部に帰隊命令。8月ソ連参戦(この時点で731部隊は証拠隠滅をはかった?)無条件降伏。
◇ 日本敗戦の報が伝わると「通化」の街々には中国の旗がはためいた。731部隊は建物と資料を焼却し日本へ帰れ。決して捕虜になるな。と。そして青酸カリが渡された。私は日本へ逃げ帰る機会を逸したまま、「通化事件」(注3)で捕虜に。収監中回帰熱にかかり意識不明。解放軍の捕虜。1949年中華人民共和国成立。1952年、元731部隊隊員であることを自首。中国戦犯として、遼寧省憮順戦犯管理所収容。1956年釈放、帰国した時私は32歳になっていました。
注1:石井式濾水機・・・731部隊長石井四が1932年に完成させた大型の野戦用の水を濾す道具。細菌などで汚染された水の浄化用
注2:ノモンハン事件・・・中国東北部(満州国)とモンゴル人民共和国との国境に接するノモンハン付近で起きた日本とモンゴル・ソ連両軍との軍事衝突事件
注3:通化事件・・・終戦直後中国東北部の朝鮮国境近くの「通化」には3万余の日本人難民がいたが、1946年2月3日、元関東軍軍人と共に八路軍に対して暴動をおこしたが鎮圧された。首諸者の元参謀長は自殺。
関連の本
「日本にも戦争があった」篠塚 良雄・高柳美知子 著 新日本出版社 2004刊 1300円
「生物戦部隊731 アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪」 西里芙子 著 草の根出版会 2002刊
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若葉・九条の会のみなさまへ 2006年12月16日
教育基本法「改正」を歴史の逆流の始まりにしてはなりません
木村忠彦(代表世話人、みつわ台5丁目在住)
12月15日教育基本法「改正」案が参議院本会議を通過し成立し、日本国憲法とセットの準憲法的法律として1947年公布施行された教育基本法が変えられることになりました。
世論調査によりますと、いますぐ教育基本法「改正」を行うべしという意見が約10%、もっと審議を尽くすべきという意見が約70%であり、自民党支持者でさえも、即時教育基本法「改正」賛成は約30%に過ぎず、約60%が審議を尽くすべきであるとのことでした。このように、安倍政権は、慎重審議を望む圧倒的多数の国民の声を無視して、教育基本法の「改正」を強行しました。
なぜいま教育基本法を変えなければならないのか。いじめ、クラス崩壊、学力の格差など教育が直面している様々の問題の解決に教育基本法改定がどう結びついているのか。安倍首相はまともな説明ができないまま採決を強行しました。
「主権者である国民のための教育」から「国家が必要とする教育」へ変えること、あるいは「国家の教育への介入を抑制する教育基本法」から「国家の教育への介入を許す教育基本法」へ変えることだけがその目的であったと判断せざるを得ません。このことは、教育基本法第10条「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきである。」が削除されたことに明瞭に現れています。教育への国家の介入を抑制し、教育の自由と自主性を守ることは、日本国憲法の要請から導き出されたものであり、第10条の削除は、日本国憲法に違反しています。教育基本法の「改正」を、憲法改正に結びつく歴史の逆流の始まりにしてはなりません。
この改定された教育基本法の具体的な実施は憲法の保障する基本的人権とぶつかり、また現在教育現場で起こっている様々の問題を解決するのではなく一層拡大していくでしょう。教育問題と憲法問題は一層深く結びついていくものと考えられます。
私たち「若葉・九条の会」も憲法を活かし擁護するための活動を一層粘り強く幅広く展開していく必要があると思います。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
事務局日誌 1年間こんなことを・・・
2006/1/22 新春平和のつどい(於;みつわ台公民館)
2/26 城丸章夫先生講演会(於;みつわ台公民館)
3/26 県内九条の会交流集会(於:千葉市文化センター)
4/23 第1回語り継ぐ: 伊藤清さん(於;みつわ台公民館)
5/27 「九条と平和の夕べ」講演とコーラス・若者からのメッセージ
(於:千葉市生涯学習センターホール)
講演 小林正弥氏「平和憲法を活かす道」
6/10 九条の会全国交流集会 (於:東京日本青年館)
6/25 第2回語り継ぐ:上野壽さん(於;みつわ台公民館)
7/30 勉強会「国民投票法案」(講師;山田安太郎さん)
9/18 「教育基本法と私たち」講演 三宅 晶子さん(於:都賀コミュニティセンター)
10/22 第3回語り継ぐ:信太正道さん(於;みつわ台公民館)
11/3 憲法発布60周年ビラ配布(JR都賀駅)
11/26 第4回語り継ぐ:篠塚 良雄さん(於;みつわ台公民館)

「若葉・九条の会」ニュースレター 第10号
 (2006年12月28日発行)


語り継ぐ 第3回
「戦争は絶対に嫌だと声を上げよう」お話:信太 正道さん 2006年10月22日
私は2000年12月23日に「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」を設立しました。2割の国民が厭戦気分になれば戦争計画は取り止めとなると考えるからです。
・憲法9条2項が殺されたらどうなるか?
・敵が攻めてきたらどうするんだ?
これが今一番問題です。これからのことが。しかし今、安部首相は「美しい国」なんて言って、絶対に醜い過去を隠したい、消したいようなので(従軍慰安婦問題の放映でNHKに圧力をかけた)古いことを忘れないように、言わなければならないのです。
教育基本法を変えて愛国心を植えつけて美しい国をつくるといっています。<憲法9条を殺す> これが「美しい国」の中身です。
私は、純粋の職業軍人です。1941年12月8日、真珠湾攻撃。1942年、海軍兵学校入校。飛行機乗りに憧れ「無敵海軍航空隊」に。1944年「神風特別攻撃隊」がつくられ1945年、特攻隊員に指名されました。死刑の宣告と同じです。職業軍人のエリートであっても、みな命は惜しく、死は恐ろしく“天皇のために死ぬ”のは本音ではなかった。面会の時、母は「特攻隊をヤメテ!」といいました。敗戦の2週間前海軍少尉に昇格。本音ではない遺書を書き前線基地に移動中8月15日、敗戦。9月帰郷した時、私を見て、母は「生きてる、生きてる」と絶叫しました。 戦後、大学卒業。海上保安庁勤務。朝鮮戦争時の機雷掃海に従事。米軍の要求です。掃海艇一艘が機雷に触れ死者を一人出している。「厳秘」で国民には知らされなかった。日本の再軍備は、(海上警備隊、海上自衛隊、航空自衛隊を見てきて)まさに「小さく生んで大きく育てろ」で今日まで来た。
航空自衛隊から日本航空に移り定年退職。日航時代、米人機長の言葉 「戦争で部下に危険な仕事を命じても、百分の一でも生きて帰れるなら罪ではない。でも、生還を許さない特攻を命じた者には殺人罪が成立する」を聞いて、目覚めた。
1994年11月3日、読売新聞の憲法改正私案を読み慄然としました。
1995 日米安保再定義→防衛計画の大綱1996 日米共同宣言
1999 周辺事態法
2003 有事法在日米軍再編 自衛隊再編 憲法9条を殺す→自衛隊から米衛隊へ。
では、いま、どうすればいいか?
1)二度と戦争は厭!と言おう。 改憲、有事法制と言うソフト、軍隊や武器と言うハードがあっても、戦うと言う国民のスピリットがなければ戦争はできない。非国民の薦め。
2)「備えあれば 憂え有り」武器を持たない。交戦権を持たない。9条2項が殺されたら、その上に支えられている人権、福祉、教育は全滅することを伝える。
3)憲法9条の運命は5000万人の中翼の人々の判断にある。誰と憲法9条の話をするのか、わかり易く話すことを考えて頂きたい。
4)いかなる戦争も「脅威」と嘘から出発5)憲法改正国民投票の準備をしよう食べやすくおいしい毒饅頭 参照 信太 正道さん 「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」http://www1.odn.ne.jp/ensenshomin/ FAX 0467-22-1948「最後の特攻隊員」――二度目の遺書 信太 正道 著 高文研 1998年刊 1800円

語り継ぐ 第4回
<証言>第731部隊の実像 お話 篠塚良雄さ
2006年11月26日
木村:本日は、篠塚さんに731部隊のことを話していただきます。当会会員の佐藤二郎さんから、ご紹介をお願いします。
佐藤:3丁目の佐藤です。篠塚さんは大正2年、茂原生まれ。当時農村では、学校へ行くのは容易なことではなかった。向学心にもえる篠塚少年が、731部隊という経験をすることになるのですが、戦後「時代を逆戻りさせてはいけない」と勇気をもって謝罪し、証言していられることを尊敬しています。
◇ 篠塚です。もう84歳になりますが、平和を守っていかねばならないという気持ちはますます強くなります。私は1923年生まれ、親は野菜つくりの百姓にしようと実業学校(農業科)に行かせました。が1年生の時、石井部隊隊員募集の試験を先輩に誘われて、親にも内緒で受けて合格、「4月1日陸軍医学校防疫研究室に来い」(1939年)との通知が来ました。それは東京の牛込区(現在の新宿区)戸山町にありました。「お前たちは石井部隊の少年隊員だ。勉強せよ。勉強すれば大学にも入れてやる」といわれ、ここで教育されました。(石井式濾水機(注1)、細菌学の初歩、など)1ヶ月余りの教育の後30人の内1人は研究室に残り29人はハルピン市郊外の平房に移動させられました。(東京→列車下関→関釜連絡線釜山→列車で朝鮮半島を北上「満州国」ハルピン市到着)
ハルピン市内の731部隊吉林街分室で顔写真の貼ってある身分証明書が渡され、正式に731部隊の少年隊に配属。車で20キロ余離れた平房の731部隊本部へ。
◇ ここは特別軍事地域・日本軍の飛行機もこの上を飛ぶことは不可・「見るな、聞くな、言うな」が部隊の鉄則・ここから逃げ出せば処刑・・・様子が変だし、私はびっくりしましたが、野原に建つ巨大な建物はロ号棟と呼ばれる、日本陸軍が生んだ世界最大規模の細菌戦部隊の中心部であり、高々と聳え立つ煙突は生体解剖後の死体を始末する焼却炉の煙突だったとは・・・その時は想像もしませんでした。秘密があればあるほど何かやりがいのある仕事が待っているのではないだろうかと思いました。少年隊として仕事を続けていくうちに、731部隊が実は細菌兵器を開発、製造するために細菌の大量生産と人体実験を行っていることを知ります。
◇ 一番最初教えられここで一番大事なのは消毒法です。細菌を扱っているのだから自分が感染すれば死にます。(実際、日本の兵士も、部隊の大勢の仲間も感染して死にました。それでも、「金鵄勲章」!)クレゾールが入った巨大な風呂に入る。チフス、パラチフス、コレラなどの予防注射。細菌実習の時は常に生菌を使う。ウサギに青酸カリ、砒素などの毒物を注射、ウサギが痙攣し死んでいくのを直視させられました。私もウサギを飼っていましたので、つらく目をつぶると「目をつぶるな!」と叱責と鞭です。こうして生き物が死ぬことに平気になるような残忍性、残虐性が植えつけられていったのです。 6月頃だったと思いますが、夜中、外が慌しくなった。鎖をひきずる音。「マルタ」を運び込んだ音でした。「マルタ」と言うのは材料(マテイリアルの意)あるいは材木の丸太をもじったとも。つまり731部隊で行われていた実験、研究の生体材料のことで生きながら切断され、切り刻まれた。(中国人、ロシア人、朝鮮人)
◇ 1939年、ノモンハン事件(注2)が起こり、部隊では細菌の大量生産がはじまり、ノモンハンの前線基地まで細菌を運ぶ作業は下士官に引率された少年隊が行った。私もハルピンからハイラルまで、1回行きました。石油缶に入った菌液は、敵の飲水を汚染させる目的でハルハ河上流のホルステイン川に流したとききました。この結果日本の兵隊にも多くのパラチフス患者がでた。17000人余りの捕虜と死傷者をだし惨敗の戦いであったのに翌年、石井部隊長は陸軍最高技術有効章を、下士官、将校は金鵄勲章を、私は運搬した功労によって、従軍徽章という勲章と金券を貰いました。細菌が兵器として使えることを証明したのがノモンハン事件であった。
◇ 1940年からノミの増殖に動員されました。ペスト菌を運ぶ兵器としてノミが使われた。ネズミにペスト菌を注射して感染させる。これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。ネズミは死にますが、ノミは体温の冷めた動物からすぐに離れる習性によって人間につく。人間に線ペストを発症させる。ペストは死亡率100パーセントです。私たちが増殖したノミはこのように使われたのだろうと思います。
◇ 1941年少年隊解散(各地の戦場で兵力を必要としたため?)私は盲腸で入院しており、再び731部隊に。第四部隊柄沢班に配属。強力な病原菌の大量培養と人体実験が任務。私が所属する柄沢班でも細菌の毒力をテストすると言う理由で、五人の中国人を使って生体実験と生体解剖をおこないました。(1942年)著書「日本にも戦争があった」(P78ーP87)
◇ <どうしたらより沢山の人を殺す事ができるか>このことだけを考えていた。少年隊の戦友も感染した末、犠牲者の一人になった。1943年になってからつくづく細菌班から抜けたいと思うようになった。細菌の怖さを知ってきた。が出られなかった。柄沢班長に、思い切って辞めたいと申し出たが「やめさせることはできない。休暇をやるから日本に一度帰って来い」と、一時帰省。つかの間、7月、満州鞍山市の昭和鉄鋼の研究所に赴任の指示。9月、瀋陽市満州医科大学および奉天、同善堂病院の技術員となることを命じられた。翌1944年ソ連国境に近い黒河省神武屯の関東軍五十四師団に現役兵として入営。11月から師団軍医部、翌45年2月、731部隊にて下士官養成教育。この頃中国との戦いは 敗北していることは、下級兵士にもわかった。知らないのは一般の日本人だけ。6月「通化」へ移動していた125部隊軍医部に帰隊命令。8月ソ連参戦(この時点で731部隊は証拠隠滅をはかった?)無条件降伏。
◇ 日本敗戦の報が伝わると「通化」の街々には中国の旗がはためいた。731部隊は建物と資料を焼却し日本へ帰れ。決して捕虜になるな。と。そして青酸カリが渡された。私は日本へ逃げ帰る機会を逸したまま、「通化事件」(注3)で捕虜に。収監中回帰熱にかかり意識不明。解放軍の捕虜。1949年中華人民共和国成立。1952年、元731部隊隊員であることを自首。中国戦犯として、遼寧省憮順戦犯管理所収容。1956年釈放、帰国した時私は32歳になっていました。注1:石井式濾水機・・・731部隊長石井四が1932年に完成させた大型の野戦用の水を濾す道具。細菌などで汚染された水の浄化用
注2:ノモンハン事件・・・中国東北部(満州国)とモンゴル人民共和国との国境に接するノモンハン付近で起きた日本とモンゴル・ソ連両軍との軍事衝突事件
注3:通化事件・・・終戦直後中国東北部の朝鮮国境近くの「通化」には3万余の日本人難民がいたが、1946年2月3日、元関東軍軍人と共に八路軍に対して暴動をおこしたが鎮圧された。首諸者の元参謀長は自殺。
関連の本「日本にも戦争があった」篠塚 良雄・高柳美知子 著 新日本出版社 2004刊 1300円「生物戦部隊731 アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪」 西里芙子 著 草の根出版会 2002刊

若葉・九条の会のみなさまへ
教育基本法「改正」を歴史の逆流の始まりにしてはなりません 
木村忠彦
(代表世話人、みつわ台5丁目在住) 
12月15日教育基本法「改正」案が参議院本会議を通過し成立し、日本国憲法とセットの準憲法的法律として1947年公布施行された教育基本法が変えられることになりました。世論調査によりますと、いますぐ教育基本法「改正」を行うべしという意見が約10%、もっと審議を尽くすべきという意見が約70%であり、自民党支持者でさえも、即時教育基本法「改正」賛成は約30%に過ぎず、約60%が審議を尽くすべきであるとのことでした。このように、安倍政権は、慎重審議を望む圧倒的多数の国民の声を無視して、教育基本法の「改正」を強行しました。なぜいま教育基本法を変えなければならないのか。いじめ、クラス崩壊、学力の格差など教育が直面している様々の問題の解決に教育基本法改定がどう結びついているのか。安倍首相はまともな説明ができないまま採決を強行しました。
「主権者である国民のための教育」から「国家が必要とする教育」へ変えること、あるいは「国家の教育への介入を抑制する教育基本法」から「国家の教育への介入を許す教育基本法」へ変えることだけがその目的であったと判断せざるを得ません。このことは、教育基本法第10条「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきである。」が削除されたことに明瞭に現れています。教育への国家の介入を抑制し、教育の自由と自主性を守ることは、日本国憲法の要請から導き出されたものであり、第10条の削除は、日本国憲法に違反しています。
教育基本法の「改正」を、憲法改正に結びつく歴史の逆流の始まりにしてはなりません。この改定された教育基本法の具体的な実施は憲法の保障する基本的人権とぶつかり、また現在教育現場で起こっている様々の問題を解決するのではなく一層拡大していくでしょう。教育問題と憲法問題は一層深く結びついていくものと考えられます。私たち「若葉・九条の会」も憲法を活かし擁護するための活動を一層粘り強く幅広く展開していく必要があると思います。

★ ★ ★ 事務局日誌 
1年間こんなことを・・・
2006/1/22 新春平和のつどい(於;みつわ台公民館)  
2/26 城丸章夫先生講演会(於;みつわ台公民館)
3/26 県内九条の会交流集会(於:千葉市文化センター)  
4/23 第1回語り継ぐ: 伊藤清さん(於;みつわ台公民館)
5/27 「九条と平和の夕べ」講演とコーラス・若者からのメッセージ
(於:千葉市生涯学習センターホール)       
講演 小林正弥氏「平和憲法を活かす道」 
6/10 九条の会全国交流集会 (於:東京日本青年館) 
6/25 第2回語り継ぐ:上野壽さん(於;みつわ台公民館)
7/30 勉強会「国民投票法案」(講師;山田安太郎さん) 
9/18 「教育基本法と私たち」講演 三宅 晶子さん
(於:都賀コミュニティセンター) 
10/22 第3回語り継ぐ:信太正道さん(於;みつわ台公民館)
11/3 憲法発布60周年ビラ配布(JR都賀駅) 
11/26 第4回語り継ぐ:篠塚 良雄さん(於;みつわ台公民館)