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ニュースレター 08号
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「若葉・九条の会」ニュースレター第8号 (2006年7月24日発行)
「九条と平和の夕べ」開催
5月27 日(土)、千葉市生涯学習センターホールで「九条と平和の夕べ」が開催され、約200名が集いました。千葉大学大学院法学部教授小林正弥氏による講演「平和憲法を活かす道」を中心に、コーラスグループの賛助出演、高校生大学生からのメッセージ、詞の朗読「アメリカの友人へ」等で多いに会場が盛り上がりました。
小林正弥氏の講演の主旨
「平和憲法を守る運動」は古い、暗いというイメージを〈新しい、明るい、希望のあるもの〉に創り変える工夫が必要。◇「平和憲法を守る運動」を、9じょうについて「非武装」の考えをとる人々だけで進めるのではなく、自衛隊は專守防衛のために認め、海外には行かない。9条2項を守ることで戦争はしない。日本は戸締りはするけれども、他所へ出て行って強盗、殺人はしない。この解釈では、自衛隊員の命を守れる。又、世界の平和にも貢献出来る。「すでにある自衛隊を憲法に明記した方がスッキリするから、改憲が必要」と言う意見を「憲法を守る」側に説得できる。◇「平和憲法を守る」と言う一点で力を合わせれば、多数派になる道は拓ける。◇第1段階・・国会で憲法改正の発議ができないように三分の一議席を「平和派」が取る戦術を練る。第2段階で、万が一国民投票になった場合は、主権者として「日本国憲法」を選びなおせるよう多数派を作って行く。保守的な人々の中にも戦争をする国にしてはならないと考えている人は多い。◇現状は危機的です。然し、絶望する必要はない。知恵を働かせ、最大限の努力を傾けていれば、撥ね返すことができる。「9条の会」の広がりに希望があります。◇過半数をとれなければ、「平和憲法」は守れないのですから、マジョリティの人々が賛成する運動を構築する必要があるのです。◇運動の広がりと結集が急務です。当日のレジメの詳細をご覽になりたい方はこちらへ「講演レジュメ3.doc」。
アンケートから集計結果 回収数 42 アンケートに回答いただいた42名の方のうち35名が総合してよかったという感想をよせられました。ご感想・ご意見の中からスペースが許す限り紹介致します(原文のまま)。
第一部について
・ 第一部は希望を感じました。高校生・大学生からのメッセージを聴いて、若い 方の中にも平和について考えている方がいると感動し、嬉しくなりました。
・ ひまわりの「褒めてください」いかにもジェームス・三木らしい歌詞で説得力 があり、「バーチェ」きれいな曲でよかった。
・Paceの旗を広げる演出はしゃれていた。・高校生、大学生の話はたどたどしいけれど、 気持ちは充分に伝えられた。詩の朗読はよ かった。
・ 歌や詩の朗読は必要なし。小林先生の講演をもっと多く、質疑などをとるべきだ。
第二部について
・ 戦争をイヤダーという人集まれ!といえば一致すると思います。大勢の人を巻き込む必要が今日の講演でよく分かりました。手作りのこころのある催しで感謝します。・ 与党は何故改憲をしたいのか。その本音は何処にあるのか。そのことが知りたく講演を受けましたが、そのことに触れていなく疑問が未解決です。・ 憲法9条を守る具体的な方法を教えてもらえてよかった。・ 9条2項の持つ意義の大きさが理解できた。護憲が時代の趨勢とする考え方を排除していくためにも、もっと活発な活動が必要だと思う。活動資金のカンパを呼びかけるのも一策ではないか。市民と研究者のデイスカッションの場を持っては如何(オープンな場で)。
・ 講演だけでなく、音楽やメッセージなどとても良かった。資料があったため,よりわかり安く聞くことが出来ました。(再度、読むことが出来ます)。世界に誇れる九条を再確認しました。私なりの言葉で身近な人々に九条を語り継ぎましょうと思いました。
・ 2項が大切とよくわかった。話はわかりやすかったが、早口でついて行けないときがあった。
・ 9条2項を守ることは自分を、自分の子孫を守ることになることを人に伝えようと思います。郵政法案だけを問うて解散したのに、選挙後の国会では、教育基本法改悪、共謀罪、国民投票法など国民主権の根幹に係わるようなことをおしとおそうとすることへの怒りを新たにしました。
・9条2項がどうして守らなければならないか、非常にていねいな解説で分かり易かった。残された時間でどのように周囲の人に話して行くか、まだ出来ることはあるという力強い話に改めて平和の大切さを思いました。
・ (レジュメでいうと6と7の関連)“九条の会”は政党支持、思想信条等の違いを超えて、九条改憲反対の一点で連携して活動を進めるという姿勢が大事だと考えます。この姿勢で保守的な人も、無党派の人々にも広く呼びかけていく必要があると考えます。講師の「平和共同候補リスト・平和共同リスト」実現を訴える危機感はわかりますが、九条の会をはじめ市民による憲法運動の中で。「平和共同リスト」をかかげたりすると運動の幅を狭めてしまう恐れがあります。
・ 全くその通りだと感じました。平和への結集がこれほど必要なときはないと思います。そういう意味から考えますと、既存の政党も、真から国民を守るために、平和への結集に協力すべきだと思います。又、各々九条を守る民主団体が一緒に行動できるように早急に取り組むべきだと思います。・ 「平和共同候補の擁立」との意見には大賛成ですが、しかしそのためには、当面、組織された集団・グループはどのような基準で選択するのでしょうか(全29団体といっても難しいことだと思いますので)。
・ 国会の護憲勢力が激減した。政治的・社会的に発言力を失ってしまった。小さい護憲勢力が党利党略で小さく結集しても小さくなるばかり。小異を滅して大同につくこと、平和共同候補の結集に全力をつくすべき時であると思います。
・ 小林先生の話に大変共感します。日頃強く感じているところです。従来のやり方ではとても太刀打ちできないのです。網の目のように手と手を地域でつなげる勇気と努力を、私自身が生き方がためされていると思います。今、1人でも2人でもと九条の会を自負してやっています。・ 講演の最後の方での平和共同候補についての件りがありました。しかし、平和の統一候補はほかのことについては意見が異なる可能性がありますよね。平和のことのみで投票するのは、郵政民営化のことのみで投票するのと同じ感じがしてしまうのですが、どう思われますか。もちろん多くの運動を結集する必要も、国政で平和を求める勢力を大きくする必要もあるとは思いますが・・。・ 平和に関する多用な見解、立場を広範に視野に入れたお話しで感銘しました。“平和への結集”について真意が伝わったように思います。いろいろ異論もありましょう。丁寧な討論、心のこもった討論を、今、おこして行くのが9条の会賛同者の仕事であると思います。主催者に感謝します。・ 市内九条の会が協力して開催したことがよかったと思います(そういっても若葉の方によりかかってしまいましたが)。各種の運動をやっている方で,初めて九条の会へ来たという人がかなりいたように思います。
・ 結集すれば勝てることを確信し、共に力を尽くそうと思います。・ 話す内容が重く、濃いのでどうしても早口で休みなくしゃべるので、ついてゆくのが大変だった。初めて聞く用語、概念がどんどんでてきて、理解するのが大変だった。・ レジメがあり、よくわかりました。高齢者が多いのでもう少しゆっくり話していただければと思います。
・ 考え方の指針として参考になりました。今まで硬直した考えでしたが修正できそうです。
第2回「語り継ぐ会」上野 壽さん 沖縄戦を語る(6月25日開催)
入隊から復員まで
・ S18(1943) 12月:予科練に志願し三重海軍航空隊奈良分遣隊入隊。
・ S19(1944) 9月:長崎県川棚町臨時魚雷艇訓練所へ移動。 「震洋艇」搭乗員訓練。
・ S20(1945) 1月:佐世保から沖縄へ出陣。沖縄の金武に「震洋」の格納庫を作り滞在。 3月:空襲。搭乗員14名と艇を失う。
4月:米軍本島に上陸開始。金武撤退。部隊解散。山(恩納岳麓)に逃げる。 6月:負傷。 住民に助けられる。
9月:捕虜。
・S21(1946) 1月:浦賀に復員。
戦争をするとは予想しないで、飛行機に乗れるかもしれないと憧れて、予科練に入りました。当時国民は敗色濃い戦況など知る由もなかった。馬が目隠しをして走るようなもの。一人乗り特攻兵器「震洋」はS19年に完成したベニヤ板で出来た船。夜間、敵艦を探し艇首に250キロの爆薬を詰め全速力で自爆する。私は、出撃しましたが、敵艦が見つからず帰還。命拾いしました。
2回目の命拾いは、4月米軍上陸。武器も食料もなくなり部隊長が部隊解散を決断したことです。各自南の戦線に移動し陸軍に合流して戦えというものでしたが、部隊が玉砕などせず、ちりぢりになったのが幸いでした。山へ逃げるも撃たれて負傷。傷は蛆がわくほどでしたが、地元住民に食料を貰い(芋の葉の粥、その人にとっても命綱のごとき)助けられ又命拾いしました。沢蟹、ハブ、ネズミ、何でも食べた。この沖縄の方の恩は生涯忘れず再会、子孫の方とも交流しています。9月捕虜になりました。<虜囚の辱めを受けず>は誤りですね。
予科練• 海軍飛行予科練習生制度。(S5発足)
S18戦力として急速拡充養成。15歳〜20歳。18,900名が戦死。特攻戦死2,534名。特攻隊は爆弾もろとも敵艦に体当たりする。必死必中。兵器は人間魚雷・回天・海竜・震洋等。
「九条の会」全国集会が開かれました。 全国に5,174の「9条の会」!!
6月10日、東京日本青年館に、全国都道府県から1,500人(約500団体)が参加。当会からは、木村代表・藤木事務局長が参加しました。9人の呼びかけ人の内、6人(大江健三郎・小田実・加藤周一・澤地久枝・鶴見俊輔・三木睦子)の挨拶、ユニークな活動をしている各地9条の会からの報告(5ヶ所)があり、午後は11の分散会。各地の活動から学び、参考にできるものは吸収する。県、市などで緩やかなネットワーク化が必要ではないかとの感想を持った。参加者の思いと熱気が伝わる集会でした。(報告 藤木)
「九条の会」からの訴え
1)「九条の会」アッピールに賛同し、思想・信条・政治的立場などの違いを超えた、広範な人々が参加する「会」をつくり、過半数世論を結集しましょう。
2)大小無数の学習会を開き、日本国憲法9条のすぐれた意義と改憲案の危険な内容を学び、多くの人々に広げましょう。
3)ポスター、署名、意見広告によるアッピール、マスコミ等への手紙・電話・メール運動、地元政治家や影響力を持つ人々への協力要請等、9条改憲反対の一人ひとりの意思を様々な形で表明しながら「会」の仲間を増やしましょう。
4)「9条守れ」の世論を広げるため、「会」を市町村・学区・職場・学園に網の目のように作り、相互のネットワークを強めて情報や経験を交流し協力し合いましょう。その成果を、来年の第2回全国交流会に持ち寄りましょう。
ニュースレター 07号
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ニュースレター第7号(2006.5.19発行)
第1回「語り継ぐ会」開催
「若葉・九条の会」は2005年5月に発足以来、講演会、学習会、コンサートなどをみつわ台公民館で行ってきました。<世界に平和をつくりだしたい、日本を戦争する国にしてはならない>と願う私たちの輪(和)を広げてきました。2006年度は、月1回の定例会を「シリーズ・語り継ぐ」として、地元千葉在住の先輩方にお話を聞く予定です。
第1回は、去る4月23日本会の監事でもある伊藤清さんの戦争体験のお話で、19名が参加、時間をオーバーするほど、熱のこもったミーテイングでした。
歴史とメモ 1937年7月:盧溝橋で日中両軍衝突 日中戦争始まる 同年12月:南京攻略1941年:伊藤さん入隊(初年兵)同年12月:真珠湾攻撃 日米開戦1942年:伊藤さん中国戦線(湖北省)に:中国ゲリラ襲撃激化 戦争泥沼化1944年:南方でも日本軍敗退 「玉砕」「転進」などの情報1945年8月:米軍,ヒロシマに原爆投下8月16日:敗戦を知る銃声のしない太陽の下で「生きている喜びを噛みしめた」。徹底的に暗記させられ、間違えると鉄拳制裁であった「軍人勅諭」を燃やした時はうれしかった。1946年6月まで捕虜収容所 同月帰還
「戦争で被害を受けた。つらい目をみた。もう戦争はこりごりである。だから憲法9条を守りたい」こう思うことは、大切なことだと思いますが、今日は私たち日本人が中国でどれだけ中国の人々に被害を与えたか、ひどいことをしたか、その加害者の立場から平和の大切さを忘れてはならないことを話します。
殺し、殺されるのが戦争。人間の死が日常的な出来事になる。恐怖心、仲間の死により敵に対して憎しみ、復讐心がわく。軍隊では上級者から殴られ痛めつけられるから、下級兵士はより弱い女、子ども、老人に暴力的になる。相手は中国の貧しい農民。教え込まれた差別意識もある。民家に押し入って略奪、放火、強姦を平然と行うようになる。
見せしめのために、農夫を妻、子どもたちが命乞いをする目の前で、焼き殺すこともした。<戦場で人間が変わる。人間でなくなる>家庭にあっては平凡な父、やさしい夫、親思いの子であった者が中国人を虫けらのように殺すように何故なったか。戦場での日本軍の残虐な行為は、幼少年期から教えられた教育勅語、成人に達すると軍人勅諭により忠君愛国教育が徹底して行われた。天皇のために死ぬことが最高の名誉と心得る肉弾ロボットがつくられた。天皇から授かった菊の紋章がついた武器、兵器のほうが兵隊1人の命よりも大事とされた。人間の尊厳など無。 好戦的な物語、手柄話、民族的優越感、アジア諸国の民衆に対しての蔑視が植え付けられた。少しの疑問を持つことも許さない。疑問をもつ自由がない。思想、良心の自由を奪った。戦場では人間が人間でなくなる・・・このことを忘れてはならない。
憲法9条は人類が到達した叡智だと思う。戦争放棄、軍備全廃は犠牲となった中国人、アジアの人々への日本人からの「ふたたび戦争はしません」という誓約である。
※話し合いの中から
▼戦争の「昭和」を子どもたちにどうやって伝える か。学校教育で教えてきたのか。◇ 教えてきた実践は、沢山あるけれども、これでよいとは思えない。歴史の授業は古墳時代から始まるから、一番大事な近、現代を丁寧に教えることが困難である。
▼どうしたら、子どもたちに伝わるか。写真、絵を使った実践もあるが、学校教育だけの問題ではないと思う。いま、私は、日本人は50年、なにをしてきたのかと自問している。
◇「南京大虐殺」について今又問題になっており、虐殺はなかった、数字は捏造という 論までありますが、私の子どもの頃の記憶が実はあります。私の家(今の川戸地域、当時、松林があり空気が良いため結核療養所がいくつかあった)に東京から女の人が、結核の療養にきていました。夫と言う人は一度も見舞いに来ず戦争が終わったときに初めてきました。その人は従軍記者で、家の私の両親と話しているのをききました。南京で皇軍が大変なことをした。世界中で大問題になっている。各国の記者は「南京事件」を本国に打電しているなかで、日本人の記者だけに情報が遮断されていたと。日本の新聞、日本人だけが知らされなかったのだとあとから、気付きました。▽ 復員してきた人が、はなしているのをききました。強姦なんかあさめしまえだと中国の女の人は、顔に墨をぬっていました。下半身には強姦を免れるために大便をぬってた。
◆下北半島には戦争中、鉄道工事、ドック建設などに従事する朝鮮人飯場が多数あった。敗戦直後朝鮮へ送り返すことになった朝鮮人3,700人を乗せた「浮島丸」が釜山には行き着かず、何故か舞鶴港で沈没した事件がある。大湊周辺では、鉄道の枕木一本一本は、朝鮮人一人一人のからだだといわれたという。子どもの頃きいたことです。どういうことだったのか知りたい。
◇今の「憲法を変えよう」という問題は自分にとって「タイヘンな一大事」です。国政選挙が大事でないとは言わないが、私は憲法については本当に自分で考えて調べて、納得して、自分の一票を投じようと考えはじめたノンポリなんです。一生懸命、改憲の議論もきいたし、護憲の議論もきいたし、本も読んだし、いまだにやっているわけです。はじめは、改憲もありか・・・なんて考えていた。 あっちへ行ったり、こっちへいったり。でもだんだん、だんだん変わってきた。考えに考えた自信はある。結論に近づいた。「よかったなー俺、死ぬまでに一票入れる時がきたら自信を持って憲法9条を守ると入れることが出来る。」と考えています。
改憲賛成の方が護憲派より多いという。しかし「9条は変えない」派は多数派である。これはネジレ現象であるが、考えようでは日本人の感覚はマトモともいえる。本当に大事なのは、九条ですから。「九条だけはダメダヨ!」ということ。まだ希望はある。
参考図書「南京事件」秦 邦彦著 1986刊 中公新書「南京事件--体験者27人が語る虐殺の「その時」とその後の人生」2006刊 高文研「私の見た南京事件」 奥宮正武著 1997刊 PHP研究所「浮島丸釜山港へ向かわず」 金 賛汀著 1984 講談社刊いずれも、近くの図書館、分館、公民館図書室にリクエストすれば、借りられます。おすすめ 新刊 「憲法「私」論」みんなで考える前に一人一人が考えよう水島 朝穂著 小学館 2006.5.10刊 2,000