ニュースレター 23号
発行 2008.12.23
「若葉・九条の会」広報部
代表木村忠彦 043-255-3904
お知らせ
若葉新春平和と文化
日時: 2009年1月25日(日)開場:13時30分 開演
場所:若葉文化ホール
参加費:前売り:500円、当日券:700円、中・高生:200円
小学生以下:無料
プログラム
第1部 「平和を願う音楽家の会」(45分)
1) 独唱  浪岡 浩子、ピアノ  木村 佐穂子
2) ファゴット独奏 加藤 洋男    ピアノ 柴田 優美子
3)  筝と尺八 筝 井上 久子、 尺八 井上 喜義
4) ピアノ 平木 晶子
第2部 若葉区で活動する皆さんを中心に(75分)
1)高校生 バンド minx             10分
2)大宮少年少女合唱団   指揮 若林 文子    15分
3)若葉シンフォニーオーケストラ           15分
クラリネット 安野 愛、 クラリネット 小笠原 真理子
ファゴット 上田 健一
4)ワンペアー
5)千葉合唱団                                    20分
「憲法九条、守る? 変える?」「米艦船給油延長、賛成?反対?」
シール投票の結果
11月3日(月)午前11時から午後1時までJR千葉駅前で表題のようにシール投票を行いました。参加者は12名でした。投票数は少なかったのですが、結果は以下のように九条を守る、給油延長反対が圧倒的多数でした。
憲法九条
変えない
変える
分からない
投票数
113(92.6%)
3( 2.5%)
6( 4.9%)
122
米艦船給油延長
反対
賛成
分からない
投票数
109(91.6%)
5 ( 4.2%)
5( 4.2%)
119
「原子力空母と原発と九条」
(11月例会報告)            崎山比早子(西都賀)
原子力空母ジョージワシントンが2008年8月25日、大多数市民の反対を押し切って横須賀港に入港しました。横須賀を母港とするためですが、これはアメリカ国外では、はじめての母港です。原子力艦の動力である原子炉には広島に落とされた原子爆弾と同様、高濃度の濃縮ウラン235が使われています。原子力潜水艦、原子力空母はこれまでにたくさんの深刻な事故を起しています。しかし、軍事機密の壁に守られて、日本政府はその危険性を調べることすら出来ません。超過密都市横浜、東京、千葉市に近い横須賀港で、もしジョージワシントンに重大事故が起きたら三浦半島全域、横浜、東京、千葉には多くの死者、急性障害者がでるでしょう。その上土地は放射能に汚染され、人は住めなくなります。これは東京湾に原発を作るよりも危険なことです。もし仮にここに原発を作ろうとすれば、様々な安全基準審査をクリアーしなければならず、認可されないことは目に見えています。ジョージワシントンに対してはその審査すらできません。このような危険物を横須賀に持ち込むアメリカは、日本に2発の原爆を落とし、太平洋のミクロネシアやネバダで核実験を繰り返し、実験訓練に参加させた兵士達を含め多くの被ばく者を生み出した国であることを忘れてはならないでしょう。
地震国日本には原子力発電所が55基あります。原子炉の運転は電気でコントロールされています。またその周りには複雑に入り組んだ大小様々な管が張り巡らされています。平時でも電気系統やその配管に故障がおこれば重大事故に繋がります。1979年にアメリカのペンシルバニア州スリーマイル島原子力発電所で起きた事故は原子炉から離れたところの復水ポンプが止まったことがキッカケでした。これに加えて人間の判断ミスも手伝い、機械が将棋倒し式に故障してゆき、ついには原子炉の燃料棒が溶けるという大事故に発展しました。1986年に旧ソ連で起きたチェルノブイリ事故では正確な死者数も不明であり、健康障害者は年を追うごとに増えています。半径30km以内の住民は強制的に避難させられ、20年以上経った今でも故郷に帰ることはできません。狭い日本では、避難が必要であった場合何処に行くのでしょうか。
多くの人が知らない更に大きな問題は、原子力発電所には使い終わった燃料、すなわち死の灰がたくさんたまっていることです。これはいつも冷やしておかなければその熱のため溶けて爆発を起こす、やっかいなものです。例えば茨城県東海村には7基の原子力発電所がありますが、その内の東海第二発電所を1年間運転すると広島型原爆約1000発分の死の灰が溜まります。ここは30年間運転されていますから3万発分の死の灰がたまっていることになります。この原発敷地内だけでも世界中の人間を殺して余りある量の死の灰があるのです。
原発は平時でも細心の注意と努力によって、事故が起きないよう保たれています。これが戦時だったらどうなるでしょうか?想像してみてください。原発や死の灰をコントロールしている電気系統か配管の何処かに、小さな爆弾が誤って落とされたとしても、日本はおろか世界中が大惨事になる可能性があります。そのような原発が日本には55基、世界には429基あります。
このような現実を知れば、私達が何をなすべきか自ずから明らかではないでしょうか。世界が9条を選ぶしか、人類が生き残る道は残されていないのです。
「原子力空母・核兵器・原発」学習会に参加して
原子力=原爆・広島。核暴走事故・チェルノブイリ。再処理施設・六ヶ所村。原子力空母・横須賀等々、私にとっておそろしいもの の代名詞のようなものである。それなのにこの小さな日本列島に何と商業用原子力発電所が55基も運転されているという。
今回11月30日に元放医研主任研究官の崎山比早子氏の「原子力空母本当にだいじょうぶ?」というお話。又テキスト、山田太郎著「原発を並べて自衛戦争はできない」もわかりやすくあらためて、9条の不戦の重要性を強く感じたものでした。
帰途みつわ台公園の紅葉に映える夕空を眺めながら、チェルノブイリの事故の時も上空が不気味な美しさに染まっていたと聞いたのを思い出しました。
(東千葉・増澤智恵子)
映画「戦争をしない国 日本」を若葉区内三ヶ所の公民館にて上映しました。参加者は90名でした。
11月9日(日)昼  千城台公民館
夜  みつわ台公民館
11月15日(土)昼  大宮公民館
映画を観て、思うこと みつわ台・嶺 昭子
昭和18年頃から終戦まで空襲の激しい中、 門司港の近い実家には毎日、沢山の兵隊さんたちが泊まっては翌日、出征して行った。 その人たちは私を次々に抱っこしたりお話をしてくれたり知らないおじさんなのにとても優しかった。幼い私に残していく我が子の姿を重ね合わせていたということを知ったのはずっと後のことだった。 2階の一人部屋には将校とわかる若い青年が端然とした姿勢で目を閉じ正座し、その苦渋に満ちた厳しい表情の意味を知ったのも後のこと。「うちに泊まった人たちはほとんど帰ってこなかった」と92歳の母は言う。
映画を見て戦争がどう仕組まれていくのか、また無関心でいることが結果的に戦争に向かうことに協力していることになる怖さを実感した。このまま進むとあるいは・・・、と考えざるを得ない現状の中、幼い時の記憶と重なる普通のお父さんたち、前途ある青年たちが無為に命を散らさないように「戦争をしない国日本」にするには今、私たち一人ひとりが責任を持って考え行動しなければならないと強く思った。
往時茫々「戦争をしない国 日本」を見て 大宮台・山辺 啓
戦争ぎらい、軍隊ぎらいの私が東部第64部隊(陸軍)への現役徴収通知を受けたのは、敗戦の年1945年(昭和20年)も4月に入ってからでした。 4月8日、型通り鎮守の日吉神社へ参詣した後、成東駅まで部落の人たちに送られました。駅頭の挨拶で、私は「生きて再び皆さんにお目にかかることができるよう、努力いたします」と述べました。「啓ちゃん、あんな事をいって大丈夫かしら」と心配された向きもあったそうです。しかし、地方の高校(旧制)から東京の大学へ移って半年、法学部での講義を聴き、勤労動員先で新しい学友たちと接するうちに、「この戦争は遠くない将来に終わるだろう」という期待が、私の心には生まれていました。なかでも南原繁(西洋政治思想)、横田喜三郎(国際法)の講義は、戦争のこれから、またこの国の将来について、若者たちの冷静な判断を可能にするための、貴重な示唆を与えてくれました。
4月1日沖縄本島にアメリカ軍上陸。私たちは、新編成の護東兵団なるものに組み入れられ、1週間ほど佐倉の兵営にいたあと神奈川県下に移り、米軍の上陸に備えることになりました。今となってはおぼろげな記憶しかありませんが、私たち初年兵に課せられたのは、円匙(ショベル)とモッコを使っての穴掘り、樹木の伐採、材木の運搬でした。
日本陸軍の伝統である「初年兵いじめ」は、現役主体の部隊ほどひどくなかったようですが、隣の部隊ではKという房総出身の初年兵が、呼ばれもしないのに「ハイ」と言って立ち上がるなど、ノイローゼ症状を示していました。「他の中隊では、便所で首を吊った奴がいたらしい」という噂も聞きました。
私は<幹部候補生を志望せず>と腹を決めていました。「帝大の学生のくせに幹部候補生を志望しないのは、皇軍を侮辱する反戦思想のせいだ」という理由で「制裁」されました。毎晩、軍曹の呼び出しがあって中隊事務室勤務者の見ている前での殴る蹴るの「いじめ」でした。
8月15日、正午、鵠沼海岸松林に集められラジオ放送を聞きました。日頃聞き慣れた日本語の抑揚とはまったく違う、間延びしたおかしな音声でしたが、「タエガタキヲタエシノビガタキヲシノビ」という言葉から、大日本帝国の降伏を察することが出来ました。
入営にあたって用意した3つの眼鏡のうち2つは「制裁」で失って、9月の半ば、私は縁のこわれた最後のひとつの眼鏡を耳から黒糸で吊って、郷里大富村(現山武市)へ復員いたしました。
全国九条の会「第3回交流集会」報告
11月24日(月・祝) 於:東京一ツ橋教育会館
全国から926名が参加した会場は満席。小森陽一事務局長から「掌握されているだけで全国7,294の九条の会がありこの一年間で300余の会が新たに誕生した」旨の報告がありました。大江健三郎、奥平康弘、澤地久枝
鶴見俊輔の四氏がそれぞれ現在的テーマで話されましたが、澤地さんが「この頃、学生や子ども、夫婦やそのご両親などが誘い合って会に来ている。どこでも確実に広がって、参加者が重層的になって来たことで、九条は崩されることはないし、決して崩させてはならない」と挨拶されたのが印象的でした。
特別報告は、アフガンの情勢と自衛隊の活動の危険性が日本国際ボランティアセンター代表理事の谷山博史からありました。
社長さん、会社経営者だけによる「グリーン九条の会」
保守系九条の会・・「さかいね九条の会」(千葉県柏市)
「憲法九条を守る首長の会」などユニークな九条の会が続々と・・・
午後から10の分散会と2つの分科会(職場の会と青年の会)が開かれました。各会場とも満席。私も5分の持時間で発表したいことの半分しか言えませんでした。
12月5日、呼びかけ人の一人である加藤周一さんが亡くなられました。
私たちは、今、小田実さん、加藤さんお二人の遺志を受け継ぎ更なる目標である「憲法九条を生かす」運動を強めようではありませんか。「第3回全国交流集会」で下記の呼びかけが確認されました。
一人ひとりの創意や地域の持ち味を大切にした取り組みで、憲法を生かす過半数の世論を。
組織的・計画的に学習し、条文改悪も解釈による憲法破壊も許さない力を地域や職場に。
思い切り対話の輪を広げ、ひき続き小学校区単位の「会」の結成に意欲的取り組みを。交流・協力のためのネットワークを。
2008年11月24日
報告 小宮豊治(都賀の台・若葉九条の会 世話人)

「若葉・九条の会」ニュースレター 23号
(2008.12.23発行)
                          ホームページ http://homepage2.nifty.com/wakabaarticle9/

お知らせ 若葉新春平和と文化
日時: 2009年1月25日(日)開場:13時30分 開演:14時
場所:若葉文化ホール     
参加費:前売り:500円、当日券:700円、中・高生:200円 小学生以下:無料 
プログラム第1部 「平和を願う音楽家の会」(45分)
1)独唱  浪岡 浩子、ピアノ  木村 佐穂子 2)ファゴット独奏 加藤 洋男  ピアノ 柴田 優美子  3)筝と尺八 筝 井上 久子、 尺八 井上 喜義 4)ピアノ 平木晶子

第2部 若葉区で活動する皆さんを中心に(75分)   
1)高校生 バンド minx 2)大宮少年少女合唱団 指揮 若林 文子 15分       3)若葉シンフォニーオーケストラ 15分 クラリネット 安野 愛、 クラリネット 小笠原 真理子 ファゴット 上田 健一  4)ワンペアー  5)千葉合唱団 20分

「憲法九条、守る? 変える?」「米艦船給油延長、賛成?反対?」  シール投票の結果 11月3日(月)午前11時から午後1時までJR千葉駅前で表題のようにシール投票を行いました。参加者は12名でした。投票数は少なかったのですが、結果は以下のように九条を守る、給油延長反対が圧倒的多数でした。

憲法九条        変えない     変える         分からない     計
投票数     113(92.6%)   3( 2.5%)     6( 4.9%)  122
米艦船給油延長    反対      賛成          分からない     計 
投票数     109(91.6%)    5 ( 4.2%)    5( 4.2%)   119

「原子力空母と原発と九条」  (11月例会報告) 崎山比早子(西都賀)   原子力空母ジョージワシントンが2008年8月25日、大多数市民の反対を押し切って横須賀港に入港しました。横須賀を母港とするためですが、これはアメリカ国外では、はじめての母港です。原子力艦の動力である原子炉には広島に落とされた原子爆弾と同様、高濃度の濃縮ウラン235が使われています。原子力潜水艦、原子力空母はこれまでにたくさんの深刻な事故を起しています。
しかし、軍事機密の壁に守られて、日本政府はその危険性を調べることすら出来ません。超過密都市横浜、東京、千葉市に近い横須賀港で、もしジョージワシントンに重大事故が起きたら三浦半島全域、横浜、東京、千葉には多くの死者、急性障害者がでるでしょう。その上土地は放射能に汚染され、人は住めなくなります。これは東京湾に原発を作るよりも危険なことです。もし仮にここに原発を作ろうとすれば、様々な安全基準審査をクリアーしなければならず、認可されないことは目に見えています。ジョージワシントンに対してはその審査すらできません。このような危険物を横須賀に持ち込むアメリカは、日本に2発の原爆を落とし、太平洋のミクロネシアやネバダで核実験を繰り返し、実験訓練に参加させた兵士達を含め多くの被ばく者を生み出した国であることを忘れてはならないでしょう。
地震国日本には原子力発電所が55基あります。原子炉の運転は電気でコントロールされています。またその周りには複雑に入り組んだ大小様々な管が張り巡らされています。平時でも電気系統やその配管に故障がおこれば重大事故に繋がります。1979年にアメリカのペンシルバニア州スリーマイル島原子力発電所で起きた事故は原子炉から離れたところの復水ポンプが止まったことがキッカケでした。これに加えて人間の判断ミスも手伝い、機械が将棋倒し式に故障してゆき、ついには原子炉の燃料棒が溶けるという大事故に発展しました。1986年に旧ソ連で起きたチェルノブイリ事故では正確な死者数も不明であり、健康障害者は年を追うごとに増えています。半径30km以内の住民は強制的に避難させられ、20年以上経った今でも故郷に帰ることはできません。
狭い日本では、避難が必要であった場合何処に行くのでしょうか。 多くの人が知らない更に大きな問題は、原子力発電所には使い終わった燃料、すなわち死の灰がたくさんたまっていることです。これはいつも冷やしておかなければその熱のため溶けて爆発を起こす、やっかいなものです。例えば茨城県東海村には7基の原子力発電所がありますが、その内の東海第二発電所を1年間運転すると広島型原爆約1000発分の死の灰が溜まります。ここは30年間運転されていますから3万発分の死の灰がたまっていることになります。この原発敷地内だけでも世界中の人間を殺して余りある量の死の灰があるのです。
原発は平時でも細心の注意と努力によって、事故が起きないよう保たれています。これが戦時だったらどうなるでしょうか?想像してみてください。原発や死の灰をコントロールしている電気系統か配管の何処かに、小さな爆弾が誤って落とされたとしても、日本はおろか世界中が大惨事になる可能性があります。そのような原発が日本には55基、世界には429基あります。 このような現実を知れば、私達が何をなすべきか自ずから明らかではないでしょうか。世界が9条を選ぶしか、人類が生き残る道は残されていないのです。

原子力空母・核兵器・原発」学習会に参加して
原子力=原爆・広島。核暴走事故・チェルノブイリ。再処理施設・六ヶ所村。原子力空母・横須賀等々、私にとっておそろしいもの の代名詞のようなものである。それなのにこの小さな日本列島に何と商業用原子力発電所が55基も運転されているという。  今回11月30日に元放医研主任研究官の崎山比早子氏の「原子力空母本当にだいじょうぶ?」というお話。又テキスト、山田太郎著「原発を並べて自衛戦争はできない」もわかりやすくあらためて、9条の不戦の重要性を強く感じたものでした。  帰途みつわ台公園の紅葉に映える夕空を眺めながら、チェルノブイリの事故の時も上空が不気味な美しさに染まっていたと聞いたのを思い出しました。 (東千葉・増澤智恵子)

映画「戦争をしない国 日本」を若葉区内三ヶ所の公民館にて上映しました。
参加者は90名でした。
11月9日(日)昼 千城台公民館  夜 みつわ台公民館 11月15日(土)昼  大宮公民館

映画を観て、思うこと みつわ台・嶺 昭子   
昭和18年頃から終戦まで空襲の激しい中、 門司港の近い実家には毎日、沢山の兵隊さんたちが泊まっては翌日、出征して行った。 その人たちは私を次々に抱っこしたりお話をしてくれたり知らないおじさんなのにとても優しかった。幼い私に残していく我が子の姿を重ね合わせていたということを知ったのはずっと後のことだった。
2階の一人部屋には将校とわかる若い青年が端然とした姿勢で目を閉じ正座し、その苦渋に満ちた厳しい表情の意味を知ったのも後のこと。「うちに泊まった人たちはほとんど帰ってこなかった」と92歳の母は言う。映画を見て戦争がどう仕組まれていくのか、また無関心でいることが結果的に戦争に向かうことに協力していることになる怖さを実感した。このまま進むとあるいは・・・、と考えざるを得ない現状の中、幼い時の記憶と重なる普通のお父さんたち、前途ある青年たちが無為に命を散らさないように「戦争をしない国日本」にするには今、私たち一人ひとりが責任を持って考え行動しなければならないと強く思った。
往時茫々「戦争をしない国 日本」を見て 大宮台・山辺 啓  
戦争ぎらい、軍隊ぎらいの私が東部第64部隊(陸軍)への現役徴収通知を受けたのは、敗戦の年1945年(昭和20年)も4月に入ってからでした。4月8日、型通り鎮守の日吉神社へ参詣した後、成東駅まで部落の人たちに送られました。駅頭の挨拶で、私は「生きて再び皆さんにお目にかかることができるよう、努力いたします」と述べました。「啓ちゃん、あんな事をいって大丈夫かしら」と心配された向きもあったそうです。しかし、地方の高校(旧制)から東京の大学へ移って半年、法学部での講義を聴き、勤労動員先で新しい学友たちと接するうちに、「この戦争は遠くない将来に終わるだろう」という期待が、私の心には生まれていました。なかでも南原繁(西洋政治思想)、横田喜三郎(国際法)の講義は、戦争のこれから、またこの国の将来について、若者たちの冷静な判断を可能にするための、貴重な示唆を与えてくれました。  
4月1日沖縄本島にアメリカ軍上陸。私たちは、新編成の護東兵団なるものに組み入れられ、1週間ほど佐倉の兵営にいたあと神奈川県下に移り、米軍の上陸に備えることになりました。今となってはおぼろげな記憶しかありませんが、私たち初年兵に課せられたのは、円匙(ショベル)とモッコを使っての穴掘り、樹木の伐採、材木の運搬でした。
日本陸軍の伝統である「初年兵いじめ」は、現役主体の部隊ほどひどくなかったようですが、隣の部隊ではKという房総出身の初年兵が、呼ばれもしないのに「ハイ」と言って立ち上がるなど、ノイローゼ症状を示していました。「他の中隊では、便所で首を吊った奴がいたらしい」という噂も聞きました。 私は<幹部候補生を志望せず>と腹を決めていました。「帝大の学生のくせに幹部候補生を志望しないのは、皇軍を侮辱する反戦思想のせいだ」という理由で「制裁」されました。毎晩、軍曹の呼び出しがあって中隊事務室勤務者の見ている前での殴る蹴るの「いじめ」でした。  
8月15日、正午、鵠沼海岸松林に集められラジオ放送を聞きました。日頃聞き慣れた日本語の抑揚とはまったく違う、間延びしたおかしな音声でしたが、「タエガタキヲタエシノビガタキヲシノビ」という言葉から、大日本帝国の降伏を察することが出来ました。 入営にあたって用意した3つの眼鏡のうち2つは「制裁」で失って、9月の半ば、私は縁のこわれた最後のひとつの眼鏡を耳から黒糸で吊って、郷里大富村(現山武市)へ復員いたしました。

全国九条の会「第3回交流集会」報告
11月24日(月・祝) 於:東京一ツ橋教育会館  全国から926名が参加した会場は満席。小森陽一事務局長から「掌握されているだけで全国7,294の九条の会がありこの一年間で300余の会が新たに誕生した」旨の報告がありました。大江健三郎、奥平康弘、澤地久枝 鶴見俊輔の四氏がそれぞれ現在的テーマで話されましたが、澤地さんが「この頃、学生や子ども、夫婦やそのご両親などが誘い合って会に来ている。どこでも確実に広がって、参加者が重層的になって来たことで、九条は崩されることはないし、決して崩させてはならない」と挨拶されたのが印象的でした。  特別報告は、アフガンの情勢と自衛隊の活動の危険性が日本国際ボランティアセンター代表理事の谷山博史からありました。
社長さん、会社経営者だけによる「グリーン九条の会」保守系九条の会・・「さかいね九条の会」(千葉県柏市) 「憲法九条を守る首長の会」などユニークな九条の会が続々と・・・
午後から10の分散会と2つの分科会(職場の会と青年の会)が開かれました。各会場とも満席。私も5分の持時間で発表したいことの半分しか言えませんでした。  12月5日、呼びかけ人の一人である加藤周一さんが亡くなられました。 私たちは、今、小田実さん、加藤さんお二人の遺志を受け継ぎ更なる目標である「憲法九条を生かす」運動を強めようではありませんか。「第3回全国交流集会」で下記の呼びかけが確認されました。 
◎一人ひとりの創意や地域の持ち味を大切にした取り組みで、憲法を生かす過半数の世論を。
◎組織的・計画的に学習し、条文改悪も解釈による憲法破壊も許さない力を地域や職場に。
◎思い切り対話の輪を広げ、ひき続き小学校区単位の「会」の結成に意欲的取り組みを。交流・協力のためのネットワークを。 2008年11月24日
報告 小宮豊治(都賀の台・若葉九条の会 世話人)