ニュースレター 7
第7号(2006.5.19発行)
第1回「語り継ぐ会」開催
「若葉・九条の会」は2005年5月に発足以来、講演会、学習会、コンサートなどをみつわ台公民館で行ってきました。<世界に平和をつくりだしたい、日本を戦争する国にしてはならない>と願う私たちの輪(和)を広げてきました。  2006年度は、月1回の定例会を「シリーズ・語り継ぐ」として、地元千葉在住の先輩方にお話を聞く予定です。
第1回は、去る4月23日本会の監事でもある伊藤清さんの戦争体験のお話で、19名が参加、時間をオーバーするほど、熱のこもったミーテイングでした。
歴史とメモ
1937年7月:盧溝橋で日中両軍衝突 日中戦争始まる
同年12月:南京攻略
1941年:伊藤さん入隊(初年兵)
同年12月:真珠湾攻撃 日米開戦
1942年:伊藤さん中国戦線(湖北省)に:中国ゲリラ襲撃激化 戦争泥沼化
1944年:南方でも日本軍敗退 「玉砕」「転進」などの情報
1945年8月:米軍,ヒロシマに原爆投下
8月16日:敗戦を知る
銃声のしない太陽の下で「生きている喜びを噛みしめた」。徹底的に暗記させられ、間違えると鉄拳制裁であった「軍人勅諭」を燃やした時はうれしかった。
1946年6月まで捕虜収容所 同月帰還
「戦争で被害を受けた。つらい目をみた。もう戦争はこりごりである。だから憲法9条を守りたい」こう思うことは、大切なことだと思いますが、今日は私たち日本人が中国でどれだけ中国の人々に被害を与えたか、ひどいことをしたか、その加害者の立場から平和の大切さを忘れてはならないことを話します。
殺し、殺されるのが戦争。人間の死が日常的な出来事になる。恐怖心、仲間の死により敵に対して憎しみ、復讐心がわく。軍隊では上級者から殴られ痛めつけられるから、下級兵士はより弱い女、子ども、老人に暴力的になる。相手は中国の貧しい農民。教え込まれた差別意識もある。民家に押し入って略奪、放火、強姦を平然と行うようになる。
見せしめのために、農夫を妻、子どもたちが命乞いをする目の前で、焼き殺すこともした。
<戦場で人間が変わる。人間でなくなる>
家庭にあっては平凡な父、やさしい夫、親思いの子であった者が中国人を虫けらのように殺すように何故なったか。戦場での日本軍の残虐な行為は、幼少年期から教えられた教育勅語、成人に達すると軍人勅諭により忠君愛国教育が徹底して行われた。天皇のために死ぬことが最高の名誉と心得る肉弾ロボットがつくられた。天皇から授かった菊の紋章がついた武器、兵器のほうが兵隊1人の命よりも大事とされた。人間の尊厳など無。
好戦的な物語、手柄話、民族的優越感、アジア諸国の民衆に対しての蔑視が植え付けられた。少しの疑問を持つことも許さない。疑問をもつ自由がない。思想、良心の自由を奪った。戦場では人間が人間でなくなる・・・このことを忘れてはならない。
憲法9条は人類が到達した叡智だと思う。戦争放棄、軍備全廃は犠牲となった中国人、アジアの人々への日本人からの「ふたたび戦争はしません」という誓約である。
※話し合いの中から
▼戦争の「昭和」を子どもたちにどうやって伝える か。学校教育で教えてきたのか。
◇ 教えてきた実践は、沢山あるけれども、これでよいとは思えない。歴史の授業は古墳時代から始まるから、一番大事な近、現代を丁寧に教えることが困難である。
▼どうしたら、子どもたちに伝わるか。写真、絵を使った実践もあるが、学校教育だけの問題ではないと思う。いま、私は、日本人は50年、なにをしてきたのかと自問している。
◇「南京大虐殺」について今又問題になっており、虐殺はなかった、数字は捏造という 論までありますが、私の子どもの頃の記憶が実はあります。私の家(今の川戸地域、当時、松林があり空気が良いため結核療養所がいくつかあった)に東京から女の人が、結核の療養にきていました。夫と言う人は一度も見舞いに来ず戦争が終わったときに初めてきました。その人は従軍記者で、家の私の両親と話しているのをききました。南京で皇軍が大変なことをした。世界中で大問題になっている。各国の記者は「南京事件」を本国に打電しているなかで、日本人の記者だけに情報が遮断されていたと。日本の新聞、日本人だけが知らされなかったのだとあとから、気付きました。
▽ 復員してきた人が、はなしているのをききました。強姦なんかあさめしまえだと中国の女の人は、顔に墨をぬっていました。下半身には強姦を免れるために大便をぬってた。
◆下北半島には戦争中、鉄道工事、ドック建設などに従事する朝鮮人飯場が多数あった。敗戦直後朝鮮へ送り返すことになった朝鮮人3,700人を乗せた「浮島丸」が釜山には行き着かず、何故か舞鶴港で沈没した事件がある。大湊周辺では、鉄道の枕木一本一本は、朝鮮人一人一人のからだだといわれたという。子どもの頃きいたことです。どういうことだったのか知りたい。
◇今の「憲法を変えよう」という問題は自分にとって「タイヘンな一大事」です。国政選挙が大事でないとは言わないが、私は憲法については本当に自分で考えて調べて、納得して、自分の一票を投じようと考えはじめたノンポリなんです。一生懸命、改憲の議論もきいたし、護憲の議論もきいたし、本も読んだし、いまだにやっているわけです。はじめは、改憲もありか・・・なんて考えていた。 あっちへ行ったり、こっちへいったり。でもだんだん、だんだん変わってきた。考えに考えた自信はある。結論に近づいた。「よかったなー俺、死ぬまでに一票入れる時がきたら自信を持って憲法9条を守ると入れることが出来る。」と考えています。
改憲賛成の方が護憲派より多いという。しかし「9条は変えない」派は多数派である。これはネジレ現象であるが、考えようでは日本人の感覚はマトモともいえる。本当に大事なのは、九条ですから。「九条だけはダメダヨ!」ということ。まだ希望はある。
参考図書
「南京事件」秦 邦彦著 1986刊 中公新書
「南京事件--体験者27人が語る虐殺の「その時」とその後の人生」2006刊 高文研
「私の見た南京事件」 奥宮正武著 1997刊 PHP研究所
「浮島丸釜山港へ向かわず」 金 賛汀著 1984  講談社刊
いずれも、近くの図書館、分館、公民館図書室にリクエストすれば、借りられます。
おすすめ 新刊 「憲法「私」論」
みんなで考える前に一人一人が考えよう
水島 朝穂著 小学館 2006.5.10刊 2,000

ニュースレター第7号(2006.5.19発行)

第1回「語り継ぐ会」開催
「若葉・九条の会」は2005年5月に発足以来、講演会、学習会、コンサートなどをみつわ台公民館で行ってきました。<世界に平和をつくりだしたい、日本を戦争する国にしてはならない>と願う私たちの輪(和)を広げてきました。2006年度は、月1回の定例会を「シリーズ・語り継ぐ」として、地元千葉在住の先輩方にお話を聞く予定です。
第1回は、去る4月23日本会の監事でもある伊藤清さんの戦争体験のお話で、19名が参加、時間をオーバーするほど、熱のこもったミーテイングでした。
歴史とメモ 1937年7月:盧溝橋で日中両軍衝突 日中戦争始まる 同年12月:南京攻略1941年:伊藤さん入隊(初年兵)同年12月:真珠湾攻撃 日米開戦1942年:伊藤さん中国戦線(湖北省)に:中国ゲリラ襲撃激化 戦争泥沼化1944年:南方でも日本軍敗退 「玉砕」「転進」などの情報1945年8月:米軍,ヒロシマに原爆投下8月16日:敗戦を知る銃声のしない太陽の下で「生きている喜びを噛みしめた」。徹底的に暗記させられ、間違えると鉄拳制裁であった「軍人勅諭」を燃やした時はうれしかった。1946年6月まで捕虜収容所 同月帰還
「戦争で被害を受けた。つらい目をみた。もう戦争はこりごりである。だから憲法9条を守りたい」こう思うことは、大切なことだと思いますが、今日は私たち日本人が中国でどれだけ中国の人々に被害を与えたか、ひどいことをしたか、その加害者の立場から平和の大切さを忘れてはならないことを話します。
殺し、殺されるのが戦争。人間の死が日常的な出来事になる。恐怖心、仲間の死により敵に対して憎しみ、復讐心がわく。軍隊では上級者から殴られ痛めつけられるから、下級兵士はより弱い女、子ども、老人に暴力的になる。相手は中国の貧しい農民。教え込まれた差別意識もある。民家に押し入って略奪、放火、強姦を平然と行うようになる。
見せしめのために、農夫を妻、子どもたちが命乞いをする目の前で、焼き殺すこともした。<戦場で人間が変わる。人間でなくなる>家庭にあっては平凡な父、やさしい夫、親思いの子であった者が中国人を虫けらのように殺すように何故なったか。戦場での日本軍の残虐な行為は、幼少年期から教えられた教育勅語、成人に達すると軍人勅諭により忠君愛国教育が徹底して行われた。天皇のために死ぬことが最高の名誉と心得る肉弾ロボットがつくられた。天皇から授かった菊の紋章がついた武器、兵器のほうが兵隊1人の命よりも大事とされた。人間の尊厳など無。 好戦的な物語、手柄話、民族的優越感、アジア諸国の民衆に対しての蔑視が植え付けられた。少しの疑問を持つことも許さない。疑問をもつ自由がない。思想、良心の自由を奪った。戦場では人間が人間でなくなる・・・このことを忘れてはならない。
憲法9条は人類が到達した叡智だと思う。戦争放棄、軍備全廃は犠牲となった中国人、アジアの人々への日本人からの「ふたたび戦争はしません」という誓約である。

※話し合いの中から
▼戦争の「昭和」を子どもたちにどうやって伝える か。学校教育で教えてきたのか。◇ 教えてきた実践は、沢山あるけれども、これでよいとは思えない。歴史の授業は古墳時代から始まるから、一番大事な近、現代を丁寧に教えることが困難である。
▼どうしたら、子どもたちに伝わるか。写真、絵を使った実践もあるが、学校教育だけの問題ではないと思う。いま、私は、日本人は50年、なにをしてきたのかと自問している。
◇「南京大虐殺」について今又問題になっており、虐殺はなかった、数字は捏造という 論までありますが、私の子どもの頃の記憶が実はあります。私の家(今の川戸地域、当時、松林があり空気が良いため結核療養所がいくつかあった)に東京から女の人が、結核の療養にきていました。夫と言う人は一度も見舞いに来ず戦争が終わったときに初めてきました。その人は従軍記者で、家の私の両親と話しているのをききました。南京で皇軍が大変なことをした。世界中で大問題になっている。各国の記者は「南京事件」を本国に打電しているなかで、日本人の記者だけに情報が遮断されていたと。日本の新聞、日本人だけが知らされなかったのだとあとから、気付きました。▽ 復員してきた人が、はなしているのをききました。強姦なんかあさめしまえだと中国の女の人は、顔に墨をぬっていました。下半身には強姦を免れるために大便をぬってた。
◆下北半島には戦争中、鉄道工事、ドック建設などに従事する朝鮮人飯場が多数あった。敗戦直後朝鮮へ送り返すことになった朝鮮人3,700人を乗せた「浮島丸」が釜山には行き着かず、何故か舞鶴港で沈没した事件がある。大湊周辺では、鉄道の枕木一本一本は、朝鮮人一人一人のからだだといわれたという。子どもの頃きいたことです。どういうことだったのか知りたい。
◇今の「憲法を変えよう」という問題は自分にとって「タイヘンな一大事」です。国政選挙が大事でないとは言わないが、私は憲法については本当に自分で考えて調べて、納得して、自分の一票を投じようと考えはじめたノンポリなんです。一生懸命、改憲の議論もきいたし、護憲の議論もきいたし、本も読んだし、いまだにやっているわけです。はじめは、改憲もありか・・・なんて考えていた。 あっちへ行ったり、こっちへいったり。でもだんだん、だんだん変わってきた。考えに考えた自信はある。結論に近づいた。「よかったなー俺、死ぬまでに一票入れる時がきたら自信を持って憲法9条を守ると入れることが出来る。」と考えています。 
改憲賛成の方が護憲派より多いという。しかし「9条は変えない」派は多数派である。これはネジレ現象であるが、考えようでは日本人の感覚はマトモともいえる。本当に大事なのは、九条ですから。「九条だけはダメダヨ!」ということ。まだ希望はある。
参考図書「南京事件」秦 邦彦著 1986刊 中公新書「南京事件--体験者27人が語る虐殺の「その時」とその後の人生」2006刊 高文研「私の見た南京事件」 奥宮正武著 1997刊 PHP研究所「浮島丸釜山港へ向かわず」 金 賛汀著 1984  講談社刊いずれも、近くの図書館、分館、公民館図書室にリクエストすれば、借りられます。おすすめ 新刊 「憲法「私」論」みんなで考える前に一人一人が考えよう水島 朝穂著 小学館 2006.5.10刊 2,000